服部良一と軍歌

服部良一が戦時中、戦時歌謡、いわゆる軍歌のたぐいを一切作曲しなかった、とするような論評をときどき目にしますが、それは事実と違っています。太平洋戦争が始まってから終戦の年まで、服部もまた毎年のように軍歌をつくっていることは、服部のホームページ「胸の振子」の「服部良一全仕事」のリストを見てもわかります。ただし昭和17年の「みたから音頭」を除いては、ほとんどヒットしませんでした。マーチの得意な古関裕而や、演歌の古賀政男にくらべて、服部の才能は戦時歌謡に向いていなかったことを、本人もよくわかっていたのでしょう。また、「湖畔の宿」をめぐるゴタゴタや、「夜のプラットホーム」の発禁問題などもあり、ジャズも禁止されて服部は軍部ににらまれ、戦時中はあまり作曲の注文もこなかったのかもしれません。
戦時中の服部は、作曲家としてよりも演奏家として活動し、中国の前線慰問にたびたび出かけています。終戦直前の8月6日にも上海の競馬場で野外コンサートの指揮をしています。そのまま収容所に入り、12月にやっと引き揚げてきました。古賀と古関は日本で終戦を迎えています。服部は古関や古賀ほどおびただしい軍歌をつくりはしませんでしたが、「軍歌にかかわらなかった反骨の作曲家」と持ち上げるには無理があり、ヒイキの引き倒しのように思います。
古賀、服部、古関の3人は年齢も近く、いずれもコロムビアに在籍したライバルでしたが、3人とも音楽学校で専門の教育も受けず、大を成したところが共通しています。大阪で生まれ、終生関西弁のアクセントで通した服部は、家が貧しくて中学へも進めませんでしたが、ウクライナ出身の指揮者エマニュエル・メッテルの個人教授で音楽理論をたたきこまれました。大阪フィルハーモニーの朝比奈隆とは、メッテル同門の相弟子です。「習ったことは他人に教えろ。そしたらそれが自分の身につく」というメッテルの教えに従い、服部は私塾をつくって仲間に音楽理論を伝え、そこから日本のポップス界を支える多くの才能が育っていったのでした。
by yagi070 | 2005-07-31 11:49 |
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