カテゴリ:歌( 9 )

雲のふるさと

d0003725_20102067.jpg

3つの「雲のふるさと」
李香蘭の未発表曲2曲が発見され、話題になっています。いずれも大木惇夫作詞、古賀政男作曲の「雲のふるさと」と「月のしづく」で、昭和19年に録音されながら、レコ-ドにはなりませんでした。「雲のふるさと」は、信濃出身の兵士が前線で、ふるさとをしのび涙を流すところが、戦争も末期になった軍部の気に入らなかったのか。この曲はその前年に、伊藤久男が映画「あの旗を撃て」で歌ったのが最初です。6連音符をあしらったり、古賀メロディーでもユニークな歌曲調で、自信作だったようです。せっかく李香蘭の美声で歌われたのに、くやしかったことでしょう。
この歌には、なおも後日談があります。なんとかもう一度世に出したいという古賀の執念がみのって、戦後の昭和42年、関沢新一の新しい詩を得て「思い出は遠く哀しく」という歌に生まれ変わり、美空ひばりが歌いました。こんどは、幼馴染と別れて都会に出た青年が、やがてその人が誰かの花嫁となったことを伝え聞き、遠く哀しい思い出に熱い涙を流すという、青春センチメンタリズムの極致のような歌です。ヒット曲にはなりませんでしたが、「私はセンチメンタリスト」が口ぐせだった古賀は、これでやっと気がすんだことでしょう。昭和53年の古賀の葬儀でも、明治大マンドリン部の後輩たちが、この曲を演奏して、偉大な先輩を送りました。
「雲のふるさと」は、まもなくコロムビアから発売される2枚組CD「伝説の歌姫 李香蘭の世界」に収められています。これで、この曲は、伊藤久男・李香蘭・美空ひばりの3種が揃うことになり、古賀の満足や、思うべし。「思い出は遠く哀しく」はカラオケにもあります。
by yagi070 | 2015-04-12 20:54 |

「星めぐりの歌」をめぐる話

d0003725_2002166.jpg
宮沢賢治
d0003725_2012829.jpg
中山歌子(右の写真、左の人物)

浅田次郎の近作長編「終わらざる夏」と、中島京子の昨年の直木賞受賞作「小さいおうち」のどちらの小説にも、宮沢賢治の「星めぐりの歌」が出てきます。「あかいめだまのさそり、ひろげた鷲のつばさ」と歌うこの歌は、1918年(大正7)作の賢治の童話「双子の星」の作中歌。作曲も賢治自身とされてきました。

大正8年に、ビゼーの作をもとに浅草有楽座で新芸術座のオペラ「カルメン」が上演され、人気を呼びました。その劇中歌として北原白秋作詞・中山晋平作曲の「酒場の唄」がつくられ、これを新進女優・中山歌子が「ダンスしましょか、カルタ切りましょか」と熱唱して、大流行します。前年秋、芸術座主宰者の島村抱月がスペイン風邪で死に、年が明けると、愛人だった女優の松井須磨子が後を追って楽屋で縊死、劇的な最期を遂げます。そこで急遽、中山歌子が抜擢され、彗星のように登場したのでした。

ところがなんと、「星めぐりの歌」のメロディーは、歌いだしから、この「酒場の唄」にそっくりそのままなのです。このころ、賢治はしばしば上京して、浅草オペラなどにも親しんでいたようです。みんなが歌っていた「酒場の唄」の旋律に、自作の詩をのせて、賢治も歌ったのでしょう。賢治はこういう「替え歌」づくりが得意だったそうです。やかましくいうなら「詩・宮沢賢治/曲・中山晋平」とすべきところでしょう。ソプラノ歌手の藍川由美さんが、著書でこのことを指摘したとき、熱心な賢治ファンの怒りを買ったとか(2011年1月22日付朝日新聞)。

歌の話はこれだけですが、ドラマはなおもつづきます。中山歌子は私生活もはなばなしく、スキャンダラスな話題もたくさんありました。10歳年下の「妹」(実は姪)、中山愛子も舞台に立たせ、この人も人気者になりました。1925年(大正14)9月5日、東京・大岡山の中山歌子邸に強盗が押し入り、愛子と愛子の夫、それに歌子の9歳になる養女の3人が絞殺されました。歌子は、たまたま病気療養のため自宅を離れていて無事でした。翌年、容疑者が検挙、起訴されましたが、獄中で病死します。3年後の昭和3年8月30日、今度は千住の醤油商が2人組の強盗に襲われ、一家3人が殺されます。容疑者の1人の妻が、愛子の夫の姉だとわかり、大岡山3人殺しも自供し、のち死刑が確定します。先に獄中死した人は、まったくの冤罪だったわけです。

愛子の死にショックを受けた歌子は、天理教の信仰に入り、各地を巡礼したそうですが、昭和3年、一人暮らしていた大岡山の自宅で亡くなりました。36歳。その5年後、宮沢賢治も37歳で世を去ります。

余話をもうひとつ。「カルメン」の舞台では、中山歌子は有名なタバコ工場の場面で「煙草のめのめ」という歌(これも白秋・晋平コンビの作)も歌い、これも評判になりました。1990年9月、晋平の故郷、長野県中野市で開かれた「晋平まつり」で、この「煙草のめのめ」を東京混声合唱団が演奏しようしたところ、地元の禁煙運動団体から「時代おくれだ」と強硬なクレームがつき、演目からはずす、という騒ぎがありました。
by yagi070 | 2011-01-24 21:19 |

古関裕而と「六甲おろし」

d0003725_11362484.jpg
古賀政男、服部良一と並ぶ昭和の大衆音楽三大作曲家、古関裕而(2009年が生誕100年)の作品を、まとめて聞く会がありました。古関の作品は5000曲におよぶといわれますが、その中で最も演奏回数の多いのは、なんといっても「六甲おろし」(阪神タイガースの歌)です。作詞は佐藤惣之助。シーズンには毎夜のように球場で大合唱、勢い余って帰りの駅でももう一声(ただし勝ったときだけ)というのですから、ほかの曲はおよびもつきません。
この歌がつくられたのは昭和11年ですから、古関の作品としては初期のものです。初めは「大阪タイガースの歌」でしたが、50年たった昭和61年に球団の改名で「阪神タイガースの歌」になりました。しかし、古関が阪神ファンだからというわけではなく、前年発足した球団の応援歌を、「船頭可愛や」のヒットで名を上げた新進の古関に注文したのでしょう。この年、古関は校歌、社歌、スポーツ応援歌、ご当地ソングなど、70曲以上の殺到する注文をさばいています。戦後は「ドラゴンズの歌」や「巨人軍の歌」もつくりましたから、阪神ファンには、ナーンダというような話ですね。この種の勇壮活発なマーチが得意だった古関は、三大作曲家の中でも最も多くの軍歌、戦時歌謡をつくり、戦後は批判もされましたが、東京オリンピックの傑作マーチも生み出します。故郷の福島県では実に101校の校歌が古関の手になるものだとか。昭和23年に夏の高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」をつくったときは、実際に甲子園のグラウンドに立って、曲想をつかんだそうです。
できてからそろそろ70年というのに、なおも愛唱されつづける「六甲おろし」ですが、歌いやすいように、原曲とはズレた歌い方をされていることを、浪花のモーツァルトこと作曲家のキダ・タローさんが、年来憤慨していることは、ご存知の通りです。
古関作品を聞く会は8月にも大阪で開かれます。問い合わせはこちら。古関裕而についてくわしいことを知るにはこちら
by yagi070 | 2006-07-14 12:03 |

服部良一と軍歌

服部良一が戦時中、戦時歌謡、いわゆる軍歌のたぐいを一切作曲しなかった、とするような論評をときどき目にしますが、それは事実と違っています。太平洋戦争が始まってから終戦の年まで、服部もまた毎年のように軍歌をつくっていることは、服部のホームページ「胸の振子」の「服部良一全仕事」のリストを見てもわかります。ただし昭和17年の「みたから音頭」を除いては、ほとんどヒットしませんでした。マーチの得意な古関裕而や、演歌の古賀政男にくらべて、服部の才能は戦時歌謡に向いていなかったことを、本人もよくわかっていたのでしょう。また、「湖畔の宿」をめぐるゴタゴタや、「夜のプラットホーム」の発禁問題などもあり、ジャズも禁止されて服部は軍部ににらまれ、戦時中はあまり作曲の注文もこなかったのかもしれません。
戦時中の服部は、作曲家としてよりも演奏家として活動し、中国の前線慰問にたびたび出かけています。終戦直前の8月6日にも上海の競馬場で野外コンサートの指揮をしています。そのまま収容所に入り、12月にやっと引き揚げてきました。古賀と古関は日本で終戦を迎えています。服部は古関や古賀ほどおびただしい軍歌をつくりはしませんでしたが、「軍歌にかかわらなかった反骨の作曲家」と持ち上げるには無理があり、ヒイキの引き倒しのように思います。
古賀、服部、古関の3人は年齢も近く、いずれもコロムビアに在籍したライバルでしたが、3人とも音楽学校で専門の教育も受けず、大を成したところが共通しています。大阪で生まれ、終生関西弁のアクセントで通した服部は、家が貧しくて中学へも進めませんでしたが、ウクライナ出身の指揮者エマニュエル・メッテルの個人教授で音楽理論をたたきこまれました。大阪フィルハーモニーの朝比奈隆とは、メッテル同門の相弟子です。「習ったことは他人に教えろ。そしたらそれが自分の身につく」というメッテルの教えに従い、服部は私塾をつくって仲間に音楽理論を伝え、そこから日本のポップス界を支える多くの才能が育っていったのでした。
by yagi070 | 2005-07-31 11:49 |

服部良一と「青い山脈」

d0003725_10103011.jpg
2007年は服部良一の生誕100年。すこし早いですが、大阪の生んだこの大作曲家の作品をまとめて30曲ほど、みんなで聴く会がありました。
3500曲を越える作品のうち、もっとも広く知られたのは、なんといっても「青い山脈」です。この歌は、平成元年に美空ひばりの「川の流れのように」が登場するまで、長く「日本人の好きな歌」投票のナンバー・ワンの王座を独占しつづけました。
石坂洋次郎原作、原節子・龍崎一郎・池辺良・杉葉子・若山セツ子・木暮実千代・伊豆肇らなつかしい面々が出演した青春ユーモア映画「青い山脈」の主題歌として作られましたが、監督の今井正はこの歌がどうしても気に入らず、録音にも立会いませんでした。今井は「映画に主題歌など無用」といい、その後の作風からみても、敗戦による価値の転倒に直面した人間群像を、強い風刺をこめて描き出したかったのではないでしょうか。西条八十の詩は、映画のストーリーとは離れて書かれています。映画の舞台になった地方の港町には「雨に濡れてる(空襲の)焼跡」などありませんし、「あこがれの旅の乙女」も登場しません。それでも昭和24年3月に藤山一郎・奈良光枝のレコードが発売されると、たちまち大ヒット。4か月後に映画が封切られたときには、もう町中でみんなが口ずさんでいる、というありさまでした。もう1曲、挿入歌として、やはり西条・服部コンビでつくられた「恋のアマリリス」は、主演の原節子に歌わせようとしましたが、原がどうしても承知せず、二葉あき子の歌になりました。もちろん、映画にはアマリリスなどというしゃれた花は、出てきません。
そのころ服部は、大阪梅田劇場と京都大映撮影所の仕事を掛け持ちし、行ったり来たりしていました。京都へ向かう省線(いまのJR)の、闇屋や買出しの客で満員の車内で、この歌の旋律を着想、あわてて手帳にハーモニカの数字譜で書留めました。まわりの人は、闇屋が売り上げの計算でもしている、と気にもとめませんでした。いろいろな解説や資料に「車窓から見える六甲の山々を見て楽想を得た」とありますが、神戸へ行くならともかく、大阪から京都に向かうのに電車の窓から見えるのは六甲ではなく、北攝の山々のはずです。このまちがいのもとは、服部の自伝「ぼくの音楽人生」にあります。服部自身が勘違いして「六甲」と書いたのが、関西の地理を知らない人に引用、孫引きされるうち「六甲」になってしまったのですね。「六甲」の歌というなら、「六甲おろし」(古関裕而)は別格として、戦中昭和17年の灰田勝彦の「新雪」(佐々木俊一)が、原作の藤沢恒夫の小説が六甲を舞台にしているので、ぴったりです。
なお、この会は9月に大阪でも開かれます。詳しくはこちらの「特別公開講座」で。
by yagi070 | 2005-07-30 10:52 |

美空ひばりと「旅ひととせ」

d0003725_14334174.jpg
明6月24日は、美空ひばりの17回忌。ひばりの芸能生活40年の1986年、小椋佳作詞作曲のひばりのアルバム「旅ひととせ」ができました。恋を失った男が日本各地を1年かけて放浪する仕立てで、岩燕(東京)/早乙女(清水)/紫陽花(大津)/花茣蓙(小豆島)/国比べ(鹿児島)/初蜩(唐津)/萩の賑い(萩)/太鼓(能登)/おしょうしな(米沢)/函館山から(函館)/風花便り(盛岡)/帰心(水戸)の12曲の組曲になっています。これが、小椋の詩といい、曲といい、ひばりの歌唱も、12曲とも非の打ちどころない出来で、おそらく二人にとっても会心の作品だったにちがいありません。ひばりが亡くなる3年前のことです。それが、同じ年に出た、やはり小椋の作品「愛燦燦」の大ヒットの蔭にかくれてしまい、いくつもある「ひばり全集」のたぐいにも入っていません。ひばりのファンでも、この傑作組曲を知らない人もいます。のちにCDにもなり、小椋自身が歌ったものも出ましたが、ひばりのものには及びません。私が知ったのはずっと後のことですが、すっかり惚れこんで、ひところは全曲を暗唱していたほどです。でも、カラオケにはシングルになった「函館山から」と「太鼓」しかなく、歌う機会もないまま忘れていました。先日、NHKハイビジョンが、この組曲を特集していたのを見て、なつかしく思い出し、また鼻歌で歌い始めています。
16年前、美空ひばりの訃報を載せた朝刊をつくったとき、私はたまたま大阪の編集の責任者でした。若い記者からは「演歌歌手が死んだくらいで、騒ぎすぎる」という声もありましたが、「これは、ひとつの時代が死んだということだ。もっと騒げ」と押し切りました。結果は、どの新聞も大展開。時代認識のない後輩のいうことをきいていたら、大恥をかくところでした。ひばりの歌のリストづくりに、担当者が閉口していたので、私がしゃしゃり出て、25曲ほど選曲しました。他紙のリストとは少し違っていましたが、あとでコロムビアの人から「毎日さんのは、ほんとうにひばりの歌が好きな人の選曲だと思った」といわれました。
現役時代、何度かこの女王にインタビューする機会があったのに、そのたびにいろいろな事情で流れてしまったのが、かえすがえすも悔やまれてなりません。
by yagi070 | 2005-06-23 15:03 |

古賀政男と原阿佐緒 またまた

大原富枝の評伝「原阿佐緒」(1996講談社)で、またいろいろなことがわかりました。石原博士との恋は、初めは石原からの一方的なものだったようです。30歳の阿佐緒に対し、石原はすでに40歳、5人のこどもがいました。阿佐緒は石原の教え子の美青年・真山孝治(といっても、これも妻帯者)に惹かれながらも、自殺未遂事件まで引き起こした石原と結ばれ、結局7年暮らしました。これが破局したのは、石原の新しい女性関係などで、阿佐緒の精神状態がしだいに不安定になったからのようです。この間、石原は、来日したアインシュタインから「学者は生活が乱れてはいけない」と忠告されたとか。
映画「佳人は何処へ」がコケたあと、昭和7年初冬、なとん阿佐緒は大阪に現れ、「さすらいの恋の歌人」のウリで、キタの酒場「ニューヨーク・サロン」の雇われマダムとなり、さらに「梅田終点東北側」に「あさをの家」という酒場を開きました。ところが昭和9年9月21日の第一次室戸台風の高潮で、店は阿佐緒が大切にしていた短歌ノート、日記もろとも流されてしまいます。そして、なんと、なんと、その前日の9月20日に、そこからさほど離れていない東区糸屋町で、この私が生まれていたのでした!(関係ないか)
石原が昭和22年に死んだのは、その前年に東京で、進駐軍のジープにはねられ、意識不明の重傷を負ったことが遠因でした。阿佐緒の宮床の実家は、映画監督志望の長男の千秋が映画制作のために担保に入れて失敗、人手に渡ってしまいます。それからは次男・保美夫妻と同居することになります。保美夫人・桃子は、画家・中川一政の娘で、阿佐緒は中川のアトリエのあった真鶴、ついで東京の保美邸に移り、そこで生涯を終えたのでした。
ところで、「あけみの歌」については、大原の評伝は「なくもがなの低俗な流行歌である」と、一刀両断。泉下の古賀も、阿佐緒もさぞかし嘆いていることでしょう。「子どもを負って」のくだりも、この評伝には、いっさい触れられていません。自伝「佳人は何処へ」は、その存在さえ書かれていませんから、自伝とはいっても、あるいは映画のためのシナリオのようなものだったのかもしれませんね。
by yagi070 | 2005-03-22 21:05 |

古賀政男と原阿佐緒 つづき

この映画に主題歌が要るからと、阿佐緒は自分で「あけみの歌」を書きます。昭和7年、阿佐緒は幼児を背中に負って、コロムビア本社に古賀政男を訪ねて、作曲を依頼します。見れば歌詞には「あけみかなしや 何処へ行く/恋にも世にも敗れ果てて/せめて子のため ながらえよ/ああああ あけみ 何処へ行く」などとあります。この姿と、子どもと生きる苦労話に、古賀は打たれ、承諾します。その夜から作曲にとりかかった古賀は、自分を育てるのに苦労した母の姿を重ね、「ギターの胴を涙で濡らしながら曲を書いた」(自伝や関係者の話)のでした。今聞いてもなかなかいい旋律で、歌は長く歌われましたが、映画のほうはさっぱり客が入らず、とうとうプロダクションもつぶれてしまいました。女優の夢破れた阿佐緒は、故郷へ引き上げ、世間からも忘れられてしまいます。実は、阿佐緒の次男は「事件記者」などにも出演した、人気俳優・原保美で、この人の夫人が阿佐緒の晩年のめんどうをみたようです。
阿佐緒は昭和44年、82歳で亡くなりますが、最晩年にはふたたびまわりに人が集まり、歌碑もでき、没後25年たって、生家が「原阿佐緒記念館」になりました。石原博士は、昭和22年、66歳で、原保美も平成9年、82歳で没。
ところで、阿佐緒が古賀に面会した昭和7年というと、長男・千秋は25歳、保美は17歳。阿佐緒が背に負っていた幼児とは、いったいだれなのか。石原との間にも、またまた子どもをもうけたのかと思い、念のため記念館に問い合わせたところ、答えは意外でした。「二度目の離婚の後、阿佐緒は病気で不妊のからだになったので、石原との子ということはあり得ません。その子がだれなのか、当方でもわかりかねます」。
さあ、この子の正体は? 私はいまのところ、こう推察しています。かねて「センチメンタリスト」を自認し、涙もろいことで有名だった古賀政男を相手に、阿佐緒がだれかの子どもを借りて、一芝居打ったな! なにしろ女優志願の人でしたから。昭和53年に73歳で死んだ古賀は、真相を知らないままだったのでしょうか。なにしろ、かく申す私めが生まれる2年前の、フルーイお話でした。あーシンド。それにしても昔の女の人はスゴイなあ。
★阿佐緒の写真を見てみたい方は、こちらただし、ここの年表はなぜか没年が違っています。
by yagi070 | 2005-03-20 22:50 |

古賀政男と原阿佐緒

昨年は作曲家・古賀政男の生誕100年。私がレギュラーで毎週金曜日午前9時から出演している、和歌山放送(WBS)ラジオの「朝からビタミンソーダ」という番組で、「朝から古賀メロディー」というのを始め、年を越してからもまだ延々と続けて、毎回2曲ずつ、古賀の作品を紹介しています。自分のi-Podにも古賀メロディーを300曲も入れ、すっかり古賀漬け。
さて、古賀が昭和7年につくった「あけみの歌」という作品があります。創唱は関種子。以下はこの歌にまつわるお話。大正から昭和にかけて、原阿佐緒(はら・あさお)という女流歌人がいました。仙台の北にある現大和(たいわ)町宮床の素封家の娘で、初めは画家を志しましたが、やがて歌を与謝野晶子に認められ、のち斉藤茂吉や島木赤彦に師事、アララギの美人歌人として、歌壇の注目を浴びました。そして、歌仲間の理学博士・石原純・東北大教授と恋に落ちます。石原はアインシュタインを日本に紹介した理論物理学者で、学士院恩賜賞も受賞した学界の大物でした。このとき、阿佐緒はすでに二度の離婚を経験、子どもも二人いました。石原も家庭を捨てて、この恋は一大スキャンダルとなり、阿佐緒は歌壇を追われ、石原も大学を去ってしまいます。それでも二人は新居を構えるのですが、まもなくこの熱烈な恋も破綻。阿佐緒は上京、銀座でやとわれマダムなどをしながら、自伝「佳人は何処へ」を書きます。佳人とは美人のことですから、自伝のタイトルとしては、ヤルものです。おまけにこれが映画化されることになると、阿佐緒は自ら主演して、こんどは女優の道をめざします。さあ、どうなりますか・・・
by yagi070 | 2005-03-20 22:07 |